[Di]Web2.0とは何か、そしてその弊害とは

トップページ> インターネット , 2006年08月29日

Web2.0というものに対して明確な定義が存在するのかと問われ、「そうだ」と言うことの出来る人間はいないだろう。このWWW上に明確に定義された「Web2.0」を語ることの出来る人間は存在せず、言ってしまえば、現在に至るまでの過程が「web2.0」への移行であり、そして現状我々はWeb2.0の成立を確認したに過ぎない。何をもって規定されるというものではなく、Web2.0を一言で規定することの出来る言葉は存在しない。

wikipediaによれば、Web2.0はこうである。(ただし、Wikipediaも普及に伴いデマペディアとなることがあり、注意が必要なのだが)

Web 2.0 を推進する立場では、Web の使い方は相互作用や初歩的な社会的ネットワークに向かっているとみなす。その場合、コンテンツはネットワーク効果を生かしたものである。ある意味では Web 2.0 のサイトは従来のウェブサイトというよりも、アクセスポイントとかユーザー依存のポータルサイトと言うべきだろう。
(中略)
Web 2.0 の技術基盤は複雑で進化途上であるが、サーバ・ソフトウェア、コンテンツ Syndication、メッセージ・プロトコル、標準ベースのブラウザ、各種クライアント・アプリケーションが含まれる。(標準でないブラウザのプラグインや拡張は一般に含まれない。)これらの相補的な技術によって Web 2.0 での情報格納、情報生成を提供し、従来のウェブサイトにはない増殖していく特徴がある。
(中略)
双方向メッセージ通信プロトコルが Web 2.0 の基盤技術のひとつである。
(中略)
Aboutweb20

結局のところWeb2.0とは双方向性を飛躍させたウェブであり、双方向性こそがキーワードとなっている。では、双方向性はどうして今実現されたのか。インターネットとは、もともと双方向なものなのではなかったのだろうか?

※ここでいうインターネットとはブラウザを介したwww通信のことであると理解しておいていただきたい。

YahooがGoogleになり、静的サイトがブログに変わり、「アングラサイト」からWinnyへと変わった。これらは皆、双方向性を有している。

双方向というのは人間と人間による双方向という意味合いだけではなく、Google Adsenseのようにサーバーがコンテンツに自動的に同期した対応をすると言った意味でもそうである。つまりコンテンツがウェブマスター一人のものではなく、コンテンツ自体にユーザーが参加することの出来る状態となっている。それがブログであり、またウィキペディアであり、Flickerであり、P2Pシステムである。

現状、web2.0というのは「全てが良い」ものであり、全く弊害が存在しないように語られている面がある。正直、それはおかしい。web2.0には様々な弊害が存在し、そしてかつてのインターネットが崩壊する危険性が込められているといえるのではないか。つまり、こうである。

インターネットは成立当初から現実とは違う第二の世界だった。現実には法律とは違う多くの不文律が存在する。その不文律は慣習であり、道徳であり、また時には自主規制であった。しかしインターネットでは法律以外の何者も我々を縛らなかった。その意味でインターネットは現実とは遊離した空間であり、そして信頼と信用の山が我々の手を離さない現実世界とは違い、その世界は「匿名」で「個人が同等の価値を有す」世界であった。その世界にいる何者の素性をも、我々は知ることができない。文字を媒介としたやり取りのみで成立するその関係は、その人物の身体的特徴やそれまでの素行、学歴、地位、そういった何者にも左右されない真の客観性ともいえる新しい関係であった。我々がその人間の人格を知りうる唯一の根拠は、彼の書く文章だけであったからだ。匿名性により守られたインターネットは独自の文化が生まれ、独自の社会を形成し、そして独自の世界を築いていった。自分がその場の空気に飲み込まれるのではなく、自分で「サイト」、つまり自分の場所を、自分の空気を作り出すことができた。現実世界では出来なかった「自分の解放」を、インターネットは可能にした。誰もが何にも縛られず、自由に暮らすことの出来る空間が、インターネットだった。

やがてインターネットは多くの時を経て、万民に開放される。つまり、「ブロードバンド」の時代だ。ブロードバンドの時代を経て多くの人間がインターネットの存在を知り、インターネットを用い、インターネットの利便性を知ることとなる。そこに今度は企業が目を付けた。人のいる安全な所に企業はやってくる。企業はインターネットを市場とし、そして人々はその企業を利用した。

しかし多くの人々と企業の流入は、インターネットを「現実化」させた。インターネットは現実から遊離した空間であったが、企業の登場によりインターネットは現実の一部であることが次第に認識されるようになり、企業と人間の接点において、我々はインターネットと現実が関係していることを認識した。しかし、この段階では人間個人の匿名性は守られており、我々は現実世界においての信頼や信用、人格や人物像を引きずることなく、全く新しい状態での匿名なコミュニケーションを楽しむことができた。

しかし、第二の波が押し寄せる。それがまさに双方向性であった。P2Pを利用したファイル交換やgoogleのうちはまだよかった。しかし、ブログ(ここでは「ブログ」と「ブログ型サイト」を明確に区分する。「ブログ型サイト」は既存のサイトと掲示板を統合した客観性を有す、つまり誰が発信しても同等の価値を持ち続ける情報の集合体であり、「ブログ」は個人の日記を綴った客観性をもたない情報の集合体である)やmixiに代表されるSNSの台頭により、インターネットの匿名性は完全に失われていくこととなる。

つまり、人々はインターネットを「第二の世界」と見るのではなく、現実に従属した一つの装置として認識するようになったのだ。ブログとは万民の欲する情報を有さない、つまり自分の記録や文字通りの日記を綴るサイトである。「今日はxxをしました」だとか、「明日は彼氏と遊園地に行きます」とか、そういった内容を記録したサイトである。こういったブログは自分に近しい存在である人間に対して公開するもので、情報を提供するというよりも、むしろ個人的な関係を強めるために開かれる。現実における関係を深めるために、あるいは現実に出会うことも視野にいれた個人的な関係を築くためにブログが利用される。

mixiにいたっては完全に現実世界の装置である。現実世界における関係を閉鎖的空間の中で多人数での言葉のやり取りで存続するものであり、それは完全に現実の関係の発展を目指している。つまり、そこには「匿名性」は全くない。SNSで行われている閉鎖的なやり取りは「WWWにおける匿名の通信」というよりは、むしろ「多人数で行われるメール」である。

私が「mixi」よりも「2ちゃんねる」を重視するのはこのためであり、つまり「2ちゃんねる」は完全な匿名、個人に対する情報が一切提供されない中で議論が進むのに対し、mixiは相手の素性が明らかになっているからだ。確かに2ちゃんねるでは「半年ROMれ」などといった「空気」が重要視される面もあったが、その「空気」は現実世界とは違った「空気」であり、そしてスレッドを作ることにより自分でまた「空気」を作り出すことが可能であった。「空気」は現実世界と違い固定化されておらず、。個人が空気を作り出すことができた。

現実と強く結びつくようになったインターネットは、やがてその独自の文化を失い、そして新たに「現実と同等の不文律」を手に入れるだろう。インターネットにおいても現実に適用されている道徳やマナーが重視されるようになり、身分制度や「年功序列」も生まれてくるかもしれない。そういった存在は、これまでインターネットには存在しなかった。「マイミク100人がすごい」とか、「はてな市民:100日がすごい」とか、そういったものは存在しなかった。「すごい」の判定はその人物の書く文章によってしか判断されなかった。

この論理には何らかの矛盾が存在すると思われるだろう。以前にも「自己紹介」「日記」といったページは存在していたという主張がそれにあたる。しかし重要なのはインターネットが「現実から遊離しているのか、否か」ということであり、以前は多くのサイトが「自己紹介」「日記」のページはサブコンテンツでしかなかった。メインコンテンツであったサイトもあった可能性はあるが、しかしその「日記」は真の日記ではなく、「僕の見た秩序」や「Numeri」「法然草(ほうねんそう:閉鎖)」のように、誇張され、創作を含むエンターテイメント性を重視した「日記」であった。今話題のブログはそういった「エンターテイメント性」を有しておらず、その多くが事実の記載に終始している。これをインターネットが事実に従属したことの証明といわず、なんということができるだろうか。

先ほど、インターネットは現実に従属する存在となった、と書いた。これはブログも同等であって、つまりブログは現実を論ずる場としても機能するようになった。ブログを利用することで、一般人は意見を表明することができるようになったと「言われる」。
しかしそれは事実ではない。現実的に一市民がブログに意見を書いたとしても、そのブログがよほどのアクセス数を誇っていない限り記事を見るのは多くてせいぜい数百人、大規模なサイトといっても、たかだかせいぜい数千人である。現状、インターネットは言論のツールというよりもまだまだ現実の癒しを求めた空間としての色合いが強く、ブログで論述をしても閲覧する人等ゼロに等しい。言論というのは認められる認められないの以前に誰かに読まれることが必要で、それがなければまさしく「チラシの裏」である。今、多くのブログは「チラシの裏」だ。つまり何がいいたいかというと、いくらインターネットが現実に従属するようになり、現実と同じことがインターネットでも論ぜられるようになった、一般人がブログで論説することが可能になった、といっても、インターネットが世論を引っ張ることはほとんど皆無であり、インターネットと現実の関係は同等ではない。インターネットは現実に利用される存在であり、また「一般人がブログにより自由な言論が出来る」というのは、理論上のことであって、現実には意味をなさない。現実世界と同様、インターネットにおいても我々は権威のある存在の意見を認めることしか出来ない。(「2ちゃんねる」は例外)
元来のインターネットと言えば、「2ちゃんねる」に代表される掲示板の一部における活発な議論は置いておくとして、やはり情報の発信という面が一番多かった。時事的な内容を発信しているサイトは今ほど多くなかったし、テキストサイト、情報サイト、アダルトサイトが比較的多かった。また、当時は「2ちゃんねる」等の掲示板も「便所の落書き」と失笑されほとんど現実にその存在が伝わることがなかった。むしろ、「隠すべきもの」として隠匿されていた。
それが今はこれである。別個の存在だったインターネットが、現実世界に知られるようになり、それと同時にインターネットも現実を意識し、やがてこれまで書いてきたように現実がインターネットを飲み込むのだ。

まとめてみよう。
現実はインターネットを取り込み、インターネットを自らの配下におさめた。インターネットは都合の良い時にだけ現実に利用され、都合の悪い時には「便所の落書き」として扱われる存在となった。それはmixiのような現実の関係を持ち込んだ非匿名のインターネットに代表される。それまでは通常の一般人が自らのサイトを通じて独創的な意見を伝えることができたが、現在はブログの台頭により意味もない意見が氾濫し、インターネットの独創性は薄れた。やがて著名人のブログが出来ることにより、そのブログに人が集まるようになる。それに触発される形で、また数多くのブログが誕生する。著名人や業界人のブログの誕生は、インターネットには存在しなかった、現実世界の「権威」がインターネット世界に流入するきっかけとなった。そして、一般市民はマスメディアの報道に対して「議論」をネット上で行う。しかし、所詮現実に利用される存在であるインターネットは、現実の権威がやはりモノを言う空間であり、インターネットが現実に対する影響力を持たない以上、人々は自分の意見をブログで表明している気持ちに浸っているだけであり、実際にはそのような意見は見向きもされない....

今話してきたことはweb2.0の弊害ではなく、ブログ、SNSの弊害であるかもしれない。しかし、ブログやSNSがWeb2.0を特徴づける存在であることは事実であるし、これから現実とインターネットの結びつきが加速していくのは目に見えている。大切なことは我々がweb2.0を神話化せず客観視することであり、それが出来なければ、インターネットは現実社会のように矛盾が噴出することとなるだろう。誰もが平等だった時代は、二度と手に入らなくなる。

今まではミクロな視点で見てきた。今度はweb2.0全体を概括したい。

Web2.0により「共同体としての叡智」が生まれるというが、100人の一般人の意見よりも1人の知者の意見のほうが優れている場合もあり、「共同体の叡智」等が生まれるかどうかは分からない。「共同体としての考え」=「インターネット全体の空気」は生まれるかもしれないが、それが「叡智」である確証はどこにもない。

誰しも表現者となれることが、そしてその情報が全て集約されるのがWeb2.0の利点である。しかしそれとは裏腹に、それまでの性格を無視した面での「進化」があるのも確かだ。世界中の情報が全てインターネットに集約され、それを端末一つで閲覧できるのは確かに便利なのかもしれない。しかしそのとき、我々は情報を支配するのではなく、情報を作り出しているのではなく、逆に「情報により情報を作り出していることを、自らが情報を作り出していると錯覚する」、つまり情報に自分が支配されてしまうのだ。玉の情報と石の情報が混在する中から、「共同体」が玉の情報のみを取り出すという。それは本当か?我々は常に、自分に有利な情報しか取り出さないのではないか?真の価値を持つ情報を、我々は見抜くことができるのか?インターネットが現実の一部と化した時、インターネットもまた一部の権力により掌握され、流されるデータはその権力の作り出す「空気」に画一化され、他の情報をや思考を示すことはできず、インターネットはそれが思うがままに支配をするための「道具」となってしまうのではないだろうか?マスコミに踊らされるように、我々はインターネットに踊らされる存在となるのではないだろうか。そう、web2.0により我々はインターネットの世界でも脇役となってしまう可能性があるのだ。個人の運営するサイトは「無価値」なものと見なされるようになり、その中にある有益な情報さえも、膨大なコンテンツの中で埋もれてしまうのである。それを検索エンジンは拾ってくれるか?トラックバックが可能になった今、それは分からない。Googleでさえ、今では有益な情報をぴたりと探し当てることができなくなっている。

考えてほしい。社会で語られる「ロングテール」「オープンソース」「全文検索」「データーベース化」。一見面白い試みであり、我々に便利だ。では我々はそのどこに位置しているのか?いったい、我々はどこにいる?結局のところ、表現者としてではなく、気がつけば現実と同様、あるものをせいぜい利用するしかない、そして元々あるものは常に搾取され続ける下層に位置づけられているのではないか?

Web2.0はすばらしくて、それ以前を「Web1.0」と呼び批判する人間は、文化には差異があると考えるのと同等に愚かだ。Web2.0を支える多くの技術は、我々が共有しているように見えて、実際には我々は何も手にしていない。手にしているのは技術へのアクセス権だけであり、それを改変する能力は有しておらず、もしそれが何らかの権力により自由に使用されるようになったとしても、それを批判することはできない。なぜならばそのとき、現実ではそうであるのと同様に、我々は権力に対する「抗議」を行う手だてを何ももたないからだ。

関連記事:市民ニュースサイトについて

(追記)
まあなんというか、ずいぶんと長いエントリーになったし、内容としても前半と後半で論点がかなり変わっていたりと、かなり読みにくい文章にはなっていると思いますが、要するに「Web2.0と呼ばれる諸現象は、実際にはいいところとわるいところがあるのではないのか」ということで、「Web2.0では我々ユーザーは自ら新しい創造をすることができなくなるのではないか、もしくはしたとしてもインターネット上においてさえそれは無意味なものになってしまうのでは」ということです。


投稿者 admin : 2006年08月29日 20:44

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