[Di]ブログにおけるコメント欄のあり方とは何か?

トップページ> 社会 > アジア , その他 > サイトについて , 2006年07月24日

最近、おかしなコメントがよく来るようになった。すばらしいコメントが増えた一方で、感情を吐露しただけの「落書き」が目立つようになった。最近というわけでもなく、すでにこの状態は1年ほど前から続いている。そこで、ここで一度ブログのコメント欄の役割について考察しておきたい。

コメント欄というのは読者が私もしくは他のコメントに対して意見を述べることができる場である。コメント欄は読者が感情を吐露し、文句をぶちまける場でもなければ、まったく関係ない話題を続けるものでもない。つまり、コメント欄は読者の意見の場であるから、一定の論理性が必要となる。

私の文章に論理性が存在するかと問われれば、自信を持って「そうだ」と答えることはできない。というのも、私自身は論理性を持って書いていると考えていても、実際読者の側から見たときには矛盾や論理的な飛躍が存在することが多いからである。私の文章が論理的なのか否か、つまり読者を納得させることのできる力があるかどうかというのは、読者が私の文章を見ることで始めてわかるものである。私は文章のプロではないし、「ブログブームに乗っかる少し前に開いたサイトがブームの中で長文テキストサイトに拡大した」サイトであるため、私自身長文の執筆はなれないことが多く、そのため多くの記事には矛盾や論理飛躍が存在するだろう。そういった点を読者の方々に指摘していただき、では実際は?ということを考察していきたいと考えている。

このサイトはもともとWindowsのカスタマイズ方法や新製品に対する考察をつらつらと述べるサイトであったが、次第に政治や経済といった社会的な内容に進出し、かなり多くの分野を扱うサイトへと変容した。しかし、その変容に伴って私の知識が増えたのかどうかと考えてみると、まったくそうではなく、増えたのは興味関心のみである。つまり、このサイトにおいて記載した内容は、私が自分の興味関心に揺り動かされることで、信頼の置けるソースから引用した内容を実際に考察するといった手順で製作されている。

私が行っているのは自分の持っている知識を書くこと、つまり「WindowsXPが発売した」といった内容を書くことではなく、それについて考察すること、つまり「WindowsXPは次世代のコンピュータに何をもたらすのか」という考察を書くことである。

上の文章で何が言いたいのかというと、この文章は「私の考え」を記載しているサイトであり、「私が正しいと思うこと」を記載しているサイトであって、絶対性などまったくないということである。同じような思考をしている人間がまったくいないこともあるかもしれない。私が書いているのは事実ではなく、事実に対する意見であるのだから、私の意見に対して読者が意見するということは当然の権利であり、そのためにコメント欄を設けててあることを頭の片隅に入れて置いていただければ幸いである。

では、私がコメント欄に何を望むかといえば、それは「コメントの論理性」である。私の意見に対しただ単に「mac信者の管理人うざい」「氏ね」などという内容を書かれても、それは「意見」ではなく「感情の吐露」である。「管理人はWindowsXPは将来性をもたないと考えているが、管理人は致命的なミスを犯しており、それはWindowsXPがアップデート機能を持っていることである。つまり、XPは今後進化する可能性がいくらでもあり、じじつWindows Defenderなるものも出てきた。Mac信者の管理人うぜー」という文章なら、なにが原因で「うざい」という感情を持っているのか理解が可能である。しかし、前者のような記述では何がなんだかさっぱりわからない。

さて、先日きたコメントがこれである。

君のコメントは不自然。
君こそ近代の情報病に取り付かれているか、それを発信または保護しているかのどちらかだろうが、どんなにあがいても我々に本質は変えられない。
無駄な事はやめる事だね。長続きはしないよ。

よくこんな馬鹿馬鹿しいコメントをWEBに残しているね。
君の馬鹿さ加減を公にしている事になるが、自分の馬鹿さに気付かずに、「ほらみろ」といわんばかりのずうずうしさに腹が立ってしょうがない。

「皆さんも、見聞きしたことをそのまま鵜呑みにしてしまうのではなく、言われていることが妥当なのかどうかを検討してみたり、 いろいろな意見を比べてみたりして、納得できる説明になっているかどうかを、 自分自身でしっかり考えてみる習慣をつけるようにしてください。」


前にも言ったが100%あなたに言える。
愚か者め。

どんな人間にも大差は無いものだよ。
せめて自分達の無能さには気付いて欲しいものだ。

君にはこの世の何かを少し問い質してみたいものだね。
会話にならないと思うが・・・

このコメントは「フォトンベルトは本当に存在するのか」というコメントに対し寄せられたものである。このようなコメントはまったく意味を成さない。なぜならば、読者がそう考える理由、原因がまったく書いていないからである。この読者がなぜ「君こそ近代の情報病に取り付かれているか、それを発信または保護しているかのどちらかだろうが、どんなにあがいても我々に本質は変えられない。」と考えるのか、そういった理由がまったく欠如しているのである。このようなコメントが続くようでは、コメント欄の意義を問い直す必要があるかもしれない。

一度整理しておく。
このサイトは事実ではなく、事実に対する私の意見を書く場である。読者はコメント欄を用い、私の考えについて意見を述べることができる。しかし、読者の意見も「意見」であるからには、論理性が必要となってくる。つまり、感情の吐露やそう考える理由がなければ意見として成り立たない。そのような文章は、意見ではなくただの文句である。

よく「長文禁止」を掲げるブログがあり、そのようなブログは「だってこのブログは読者のためのブログではなくて自分のためのブログだもん。だから黙って俺の記事を読んでろ」という旨の主張を行っていることが多い。しかし、私の主張は逆である。ブログは読者がなければ存在し得ない。ブログというのは自身の意見を簡単に外部に発表することを可能にしたツールではあるが、しかしブログが「意見の発表の場」である以上、読者がいなければその機能を果たすことはできないからである。また、インターネットが双方向を志向するものである以上、読者が意見することができる場が存在するべきである。その場こそがコメント欄なのであり、長文での意見はウェブマスターとして歓迎すべきものであるはずであるのだ。

何度も繰り返すようで申し訳ないが、コメント欄は読者が感情を吐露する場ではない。「この記事うざい!!!私は芸能人の○○君の復活を信じています!!!」といったコメントは誰にも望まれていないし、逆に己の馬鹿さ加減を露呈するだけである。真のコメントは「この記事は違うと思います。なぜならば・・・・」といった感情に対する原因や理由が示されたものでなくてはならないと私は考えている。

以上のことを考えて、私は以下のようなコメントには変身をすることができないことを了承していただきたい。「管理人うざいです!!!」とか、「管理人あほだなw」といった文章は、「なんで?」「だから?」といった疑問しか浮かばず、返答する意味がないからである。

  1. 感情を吐露しているだけの文章
  2. まったく無関係な話題の文章
  3. コメント欄においての読者同士の意味を成さない言い争い
  4. 理由、原因といった「論理展開の明示」がない文章

私はこれまで、どんな文章にも「読者の誠意が見られれば」返信してきたつもりである。しかし、時間的な制限上そうもいかなくなってきた。しかし、読者のコメントにはできる限り返答したいと考えている。コメントには有用な意見が多く、ありがたくも専門家のコメントを頂戴することさえあるからである。そのため、できる限り以上のことを守って投稿をしていただきたい。「ブログは読者がいて初めて成立する」といっておきながら、読者のコメント投稿をこのように縛りこむのはおかしい気がするかもしれないが、「うざい」「うざい」と私や他のコメント投稿者を罵倒するような書き込みばかりでは、それ以前に読んでいて不快になるブログとなってしまう。読んでいて不快になる文章は言語の本質から外れてしまう。

最後に、当サイトでは恣意的にコメントを消去することは一切行っていない。コメントが投稿直後すぐに反映されないのはソフトウェアにより自動的にコメントが保留されている状態であり、それは「メールアドレス」「氏名」「サイト名」のいずれかが空欄であるか、あるいはスパムリストと一致した場合に発生する。そのことを理解していただければ幸いである。


投稿者 admin : 2006年07月24日 16:21

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