[Di]自由は根付いたのか -朝日新聞の自由

トップページ> 社会 , 2006年07月20日

朝日新聞が7月20日付けで、「自由は根付いたのか」と題した文章を発表している。そもそも自由とは何なのか、ということから考えていく必要があるとは思うのだが、今回はそのような時間はないし、僕にはそのようなことができる能力がないため、割愛しておく。

ただひとつあるとすれば、アメリカでいう自由には「Freedom」と「Liberty」があり、前者は束縛からの自由であり、後者は責任を伴う自由、と解される。日本には歴史的に見て市民階級が勝ち取った自由というものが存在しない。すべて、上からの改革により与えられた自由である。一方、西洋では市民が自ら自由を勝ち取った。そこに、自由に対する概念の根本的な違いがあるように思える。日本において、自由は当たり前のことであるが、西洋ではそうでないことが、このような違いを生んだのだろうか。われわれは自由をすべて与えられた。しかし、西洋では与えられた自由としての「Freedom]と、勝ち取った自由としての「Liberty」を区分する。

しかし、どちらがよいかという問題ではない。それは文化の違いなのではないだろうか。別に日本の自由に対する概念が間違っているとか、そういったことではないはずだ。概念自体が存在しないのだから、間違っていることもできないのではないだろうか。

さて、先にあげた朝日新聞を引用する。

 サッカー日本代表の監督だったジーコ氏は、選手の自主性を重んじ、自由にプレーして、持てる力を発揮することを期待した。

 だが選手たちは、自由が身に付かず、指示には忠実だが、自ら判断して全力を出せるほど「成熟していなかった」。

(中略)

 サッカーはその国の文化の縮図であり、今の学生、サラリーマンの姿と重なる。

 思い出すのはマッカーサー証言だ。日本人は占領で得た自由を守れるのか、と聞かれ「日本人は12歳の少年で学びの段階だから、新しい思想が根付く」と言った。あれから55年、まだ自由は根付いていないのか。

 ところが小泉首相は、日本に自由は根付いている、と宣言した。ブッシュ大統領との共同文書「新世紀の日米同盟」によれば、「自由、人間の尊厳・人権、民主主義、市場経済、法の支配などの普遍的価値観は、両国の歴史的伝統に深く根差したもの」だ。

 これは中国を牽制(けんせい)する条項とされるが、日本自身、自信を持ってそう言えるのか?

 自由が根付いているなら、サッカー選手も学生もサラリーマンも、もっと生き生きと力を発揮しよう。自由には責任が伴う。そう思えば、全力を尽くす意欲が生まれよう。

 経済や社会のルールを破る自由、首相が何度も靖国参拝する自由など、自由のはき違えもなくなり、普遍的価値観に基づく現行憲法を押し付けと非難することもなくなろう。

 自由を根付かせ、ソフトパワーを強めることがいかに大切か、サッカーが教えてくれる。

要点を搾り出すと、こうなる。

  1. ジーコ前監督は選手に対して自由にプレーすることを期待したが、選手はそれができなかった
  2. サッカーはその国の文化の縮図である
  3. マッカーサーは「日本はこれから自由の概念を作るのだ」といった
  4. でも、サッカーを見る限り自由は根付いていない
  5. 小泉首相は自由は根付いているといった
  6. 自由には責任が伴うのだから、全力を尽くす意欲が生まれるはず。もっと力を発揮しよう。
  7. 「経済や社会のルールを破る自由」「首相が何度も靖国参拝をする自由」は自由の履き違え
  8. 自由を根付かせるのが大切

二言いいたいことがある。スポーツと政治を絡めるなということと、日本語でおkということである。しかし、ここでは朝日新聞の意図をこう汲み取ってみよう。

つまり、自由というのは責任が伴う。しかし、現在の日本においては「経済や社会のルールを破ってもよい。自由でしょ?」とか、「靖国いってもいいじゃん。自由でしょ?」とか、責任を忘れた自由を伴う行動が目立つ。それは文化を反映するサッカーにも見られることで、つまり二本にはまだ責任ある自由という概念が身についていない。だからこそ、自由を根付かせて、本当の自由を手に入れよう

ということではないだろうか。しかしまあ、めちゃくちゃな記事だ。まず、サッカーは文化を反映しているとはどういうことか。そこで反映されている文化は「日本の選手には自由が身についていない」ことなのだろうか。

むしろ、日本人の個よりも集団を重んじる性質がうまく出ているために、「個の意識を出せていない」という文化が反映されているのではないだろうか。それに、ここでいう自由とは、後に出てくる「責任を伴う自由」とは少々趣が異なっている気もする。「個」として責任を伴うのか、それとも「集団」として責任を伴うのか。日本人選手の実力不足があったのは確かかもしれないが、それ以上に個を重んじない姿勢がこのような状況を作り出しているのであって、それを「責任ある自由が育っていない」につなげることはおかしい。普通なら、ここは「日本では個人主義はまだまだ進んでいない」となるはずである。個人主義の形成は責任ある自由という概念の有無に関係ない。

マッカーサーは今後自由の概念が日本にも形成されていくだろうと語ったが、何のことはない、朝日新聞が言っているのは思想が形成されることではなく、アメリカ型の自由という概念を日本に完全に輸入できているのか、という話である。それは形成された自由ではない。日本独自の自由という概念が、そんな簡単にできるはずがない。いや、むしろ現在の「自由」、つまり「責任も何もない、放漫な状態」が日本において作られた「自由」なのかもしれない。

それにしても、この文章はまったく持ってよくわからない。それがなぜ経済や社会のルールを破る自由だとか、首相が靖国に行く自由とか、そういったことにつなげるんだ?サッカーとこういう問題をひとくくりにして、「日本人だめね」というほうがおかしいのではないだろうか。朝日新聞こそ、責任の伴う自由、発言には責任が伴うことを自覚していない気がするのだが。

そもそも、「首相が靖国に行く自由」に関して、首相は責任を・・・あー、もうよくわからなくなってきた。自分が書いた文章すらよくわからなくなってきた。そもそも、朝日新聞の文章があっちにいったりこっちにいったりしすぎなのだ。わけがわからない。ということで、一応アップロードはしておくけれども、僕のコメントはかなり意味がわからなくなってしまっているかもしれない。

結論
もうねえ、メディアだって「文章に対する責任」を持つわけですよね。確かに何かいてもいいのかもしれないけど、でもこの文章はひどすぎだよ。ひどすぎ。内容があっちにいったりこっちにいったり。サッカーと靖国とか村上ファンドの話をこじつけるのはおかしいでしょ。それは別の話。それに、「経済や社会のルールを破る自由」「首相が何度も靖国参拝をする自由」 ←誰も自由だと思ってない。 おかしいのは朝日新聞。あと僕の文章もか。

追記
小泉首相は責任を伴って靖国神社に行っているのだから、それは責任ある自由の行使じゃあないの?
村上は自分の行為に違法性があったと認めているよね。責任ある自由じゃないの。
「日本のサッカーに自由がない」というのは、ようするに「個人がそれぞれの自主性を出してプレーする団塊に至っていない」ということ、つまり「日本の選手は個性を出さないで集団を重んじる」こと。つまり責任ある自由とは関係ない。


投稿者 admin : 2006年07月20日 17:06

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